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1.「先住民族の権利に関する国連宣言」の採択と国際開発事業の将来

~先住民族の権利と国際社会の義務、事業者の責任~

恵泉女学園大学教授、市民外交センター代表 上村 英明


「先住民族の権利に関する国連宣言」の採択:国際法の主体となった先住民族
  2007年9月13日、「先住民族の権利に関する国連宣言(以下、本国連宣言)」という歴史的人権文書がニューヨークの国連総会で採択された。日本を含めた賛成144カ国に対し、反対票を投じたのは、米国、オーストラリア、カナダ、ニュージーランドの4カ国のみという圧倒的多数の支持を受けた国際文書である。

 先住民族とは、16世紀以降近代国際法が欧州を起源に広がり、国際社会が形成される中、その主体性が否定された人々の集団である。欧州人が認識する政治システムや法システム、社会システムを持たないという理由で一方的に「未開」と決め付けられ、「文明化」という口実で、罪悪感の欠片もなく宗主国や植民者によって強制的にその国家に併合された人々である。北米の「インディアン」や豪州の「アボリジニー」などの諸民族がその典型だが、もちろん、アジアやアフリカにも先住民族は存在する。アジアやアフリカに近代国家が誕生し、その実体化が図られる過程で、同じように「未開」に類似するレッテルを貼られて一方的にその国家に併合された諸民族が存在する。

 例えば、東南アジアでは、植民地解放の過程で地図上にかつての植民地支配を土台に近代国家が現れるが、国境地域とそこに住む「山岳民族」や「海の民」などと呼ばれた集団が実体的かつ強制的にその国家に統合されるのは、1960年代以降である。その意味で、タイにも、ラオスにも、マレーシアにも、インドネシアにも先住民族は原理的に存在するし、現実に、先住民族だと主張する集団がさまざまな機会にそう主張している。同じ状況はアフリカにも存在するし、その意味で先住民族問題は、北は北極圏から南は南米大陸南端のフエゴ島までに共通する「グローバル問題」であった。

 これらの先住民族が、近代国際社会に働きかけ、対等な国際法の主体であることを最初に求めたのは、1922年国際連盟に出かけた北米・イロコワ連邦(自らの言葉でハウデノショーニー)の代表デスカヘー(Deskaheh)であった。デスカヘーはジュネーブで、民族の自己決定権の保障を求めたが、第一次世界大戦の敗戦国の植民地解体にはこの権利を適用した当時の国際社会も先住民族の権利には対応しようとしなかった。第二次世界大戦後、人権に関する国際規範が発展するなか、先住民族に対する差別問題に関心がもたれるようになったのは、遅れて1970年代後半になってからであった。本国連宣言への道の直接的原点は、1977年に遡る。

 1977年には、国連NGOの主催で、「南北アメリカ大陸における先住民族差別に関する国際NGO会議」が開催されたが、ここで採択された「西半球の先住民族国家および人民の防衛のための原則宣言」には、先住民族が国際法の主体であり、自己決定権を行使する能力を持つことが明記された。また、国連人権委員会の下で始められた「先住民族に対する差別問題の研究」では、その特別報告者が1981年先住民族の権利保障のための国連機関の設置を提案した。こうした影響の下、この宣言起草を目的とした最初の国連機関「先住民作業部会(WGIP)」(注1)が創設され、活動を始めたのが1982年のことであった。

 つまり、30年のあるいは25年の歳月を経て、先住民族が自己決定権を行使する国際法の主体であるという原則が国連総会という近代国際社会の最高機関でついに承認された。別の見方をすれば、先住民族にとっての「夢」が、コロンブスに象徴される世界観から数百年の歴史を経て、「現実」になったといえるかもしれない。

「ライツ・ホルダー」が意味するもの:「ステークホルダー」と異なる法的地位
  1990年代ころから、国際協力の分野においても、適切なプロジェクトの実施評価の場に「ステークホルダー(stakeholder)」という概念が導入されるようになった。もともと、企業用語で、「株主(shareholder/stockholder)」に対して、投資家を中心とする利害関係者を「ステークホルダー」と呼んでいたが、この1990年代から「企業の社会的責任(Corporate Social Responsibility)」が重視される中、地域住民、NGO、国際金融機関などを含むより広い「利害関係者」にこの用語が使われるようになった。その文脈は、「持続可能性」や「環境配慮」の視点から個々のプロジェクトの計画、実施、評価に対し、こうした「ステークホルダー」とコミュニケーションを図り、よりよい合意を模索することが推奨されたのである。

 例えば、ある国の山岳地域に巨大ダムが建設されるのであれば、そのプロジェクトに関わる国際金融機関、事業者、地域住民、NGOなどが同じ利害関係者として話し合いが行われることが求められるようになった。その場合、通常、先住民族は地域住民とみなされるが、コミュニケーションを図るべき「ステークホルダー」の中での力関係の不均衡は歴然としていて、「同じ」関係者ではなく、その実態は、その中でも最も弱い立場に位置する人々と考えられ、また現実にそうした不利益を押し付けられた。

 これに対し、前文24段落・本文46条から構成される本国連宣言は、第3条で次のように謳い、先住民族を「ライツ・ホルダー(rights-holder)」の地位に押し上げている。

「第3条 先住民族は自己決定の権利を有する。この権利に基づき、先住民族は自らの政治的地位を決定し、並びにその経済的、社会的および文化的発展を自由に追求する」

 この条文は、国際人権文書の中でも、「世界人権宣言」を条約化した文書として、中核に位置する「国際人権規約」の共通第1条(注2)に明記された「人民の自己決定権」に関し、主語「すべての人民」を「先住民族」に代え、書き直したものである。つまり、本国連宣言第2条がより明らかにしているが、先住民族は他の「人民・民族」と同じ権利を有することがこの文書で認められたにすぎず、新たな権利設定がなされたわけではない。しかし、国際開発事業を例に取れば、通常の2国間援助にみられる主権国家対主権国家の基本関係に、先住民族という「自己決定権」をもった「ライツ・ホルダー」が加わることによる影響は決して小さくない(注3)。事業者に取って、先住民族と話し合ったというだけでは、配慮を行ったと認められず、むしろ合意をきちんと取らなかったことを「人権侵害」として公式に国際問題化する確立が高まることになるからである。

 もちろん、国際人権規準としての本国連宣言は、一般には、「宣言」であって将来「国際条約」化しなければ、いかなる法的効力ももたない。しかしながら、30年あるいは25年という気が遠くなりそうな時間の中、前文12段落・本文28ヵ条から成る1988年の草案原案で始まった内容は、2007年の採択時には約2倍の前文24段落・本文46条に膨れ上がり、各条項は、国際条約とすでに同じ水準の具体的内容に達していた。これに関する例を挙げるとすれば、2007年1月に先住民族出身の大統領を誕生させたボリビアが、11月7日、条約を飛び越え、本国連宣言をそのまま国内法化(国内法3760)する措置を取って国際社会の注目を集めたことだろう。

  これは、先住民族の権利の広がりとインパクトを示すだけではなく、本国連宣言の内容が、条約化あるいは国内法化に十分耐えうるものであることを証明している。さらに、本国連宣言は、国際人権規準として道義的効力をもつことになるが、これはとくに2つの意味において重要だろう。ひとつは、先住民族の権利に特化した複数の国連機関で、本国連宣言は明確な国際規準として利用されると考えられることである。先に紹介した1982年の「先住民作業部会」は、2005年に始まった国連改革の中、先住民族に対する差別・人権侵害を監視する機関としてより強化され、2008年にはジュネーブで再スタートする。また、ミレニアム開発目標など開発問題を強力に管轄する経済社会理事会の下には2002年に「先住民族問題に関する常設フォーラム(PFII)」が設置されており、ニューヨークで毎年開かれる審議で本国連宣言は最重要な人権規範として利用されることだろう。両者とも先住民族自身が委員を構成している点も重要である。

 もうひとつは、国家に対する道義的効力しかない本国連宣言も、先住民族問題を扱うかどうかを問わずすべての国連機関、国際機関をより強力に拘束することになり、この点は本権利宣言第42条が明記している。いずれにしても、先住民族に対する人権侵害は、これまでと比べ物にならないほど、国際問題化することになるだろうし、こうした国際規準は急激ではないにしても、確実に政府や企業、その他の「ステークホルダー」の行動を変える結果につながるものである。別の視点からいえば、コーポレートガヴァナンスの一環としてのコンプライアンス(compliance)あるいは法令・規範遵守の、国際社会における重要な規準のひとつに、本国連宣言がなることは時間だけの問題である。

 次回は、何が権利として各条文に規定されているのかを見ながら、日本における「先住民族の権利」についても考察したい。

注:
(1) 「先住民族に対する差別問題の研究」は、人権委員会の下に設置された人権小委員会委員ホセ=マルチネス=コーボゥを特別報告者として研究が進められ、81年に発表された「第1次進捗状況報告書」で国連機関の設置が提案された。「先住民作業部会(Working Group on Indigenous Populations)」は、1982年その提案に沿って、人権小委員会下部機関として委員5名で設置された。
(2)  1966年国連総会で採択された「国際人権規約」は、成立の過程で冷戦が激化し、「自由権規約」と「社会権規約」の2つの個別条約から構成される文書となった。しかし、その2つの規約とも第1条は「人民の自己決定権」に関する同一条文であり、これを「共通第1条」と呼んでいる。
(3)  先住民族の「自己決定権」に関しては、第46条で国家からの分離や独立に「乱用」してはならないという制限が付されているが、条文においても、また起草過程においても、先住民族の経済的自己決定権を承認しないという議論は存在しなかった。                         
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